北千住の魅力

東京23区の北東部に位置する足立区の中でも範囲の狭い、隅田川と荒川に挟まれた千住地区にあるの街が、北千住です。千住地区は江戸時代から奥州街道・日光街道の初宿と定められ、宿場町として多くの大名、旅人に利用されました。

現在の北千住駅はJR常磐線・東武伊勢崎線・東京メトロ千代田線・つくばエクスプレスが乗り入れる5路線を交える大ターミナル駅になっています。駅ビルに衣類・雑貨・レストラン・他多数の優良店舗を展開するルミネ、駅周辺では日々の生活に便利な多数の専門店舗を抱え、映画館(シアター1010)も併設するる商業ビル千住ミルディス、そして駅から少し離れるとサンロード宿場町通り商店街・西口駅前通り(きたろーど1010)をはじめとした、東京下町の活気の溢れる多数の商店街を楽しむことができます。

商店街には幅広い層へ対応する衣類店、薬局、その他生活必要品販売店、そして古き良きといった甘味所等あらゆるニーズに対応するお店が軒を連ねています。また、北千住は銭湯の数も多く、下町情緒ある町並みとレトロ感たっぷりの銭湯をショッピングの合間に楽しむこともできます。江戸時代江戸四宿に指定されていた地域であり、その時代の息づきを町並みの中にある史跡から感じることができます。

北千住は現代の利便性と古くからの昔情緒を一度に楽しめるとても魅力的な地域です。

Filed under: 未分類 — admin 12:10 PM

千住宿

延暦時代(今から千百年ほど前)に千住が建設された時千寿、千崎の名ありと古文書に記されて以来、多くの小地名が記録されましたが皆定かではありません。千葉氏がこの付近を支配した戦国後期には専住と三股がこの地域の確かな地名でした。

千葉氏が滅び北条氏によって熊谷土手が築かれ、やがて徳川時代となり宿に指定されると地域は整備され、元宿や三股の旅宿や商家は北部に移転させられ、南部に掃部宿が拓かれました。そして千住大橋が架けられると今の南千住地区も抱合され千住八丁が成立しました。

千住宿はこの八町の合同で運営されていました。明治になると天領は支配地別に県とされ、明治四年九月千住八丁改組されて一~五丁目は北組、掃部宿は中組、小塚原町中村町は南組みの三宿とされました。その年の十一月小菅県は廃止され東京府に編入されました。明治十一年七月に郡区町村編成法が施行されると東京府には十五区六郡とされました。それまで一体で渕江領に属していた南組みはこの時新設された北豊島郡に移され北組みと中組みは同じく南足立郡の所属となりました。明治二十一年四月に市制町村制が施工されると千住北組みと中組は合併し千住町となり南組みは周辺の地方を合併し南千住町となりました。この時地域から外れた多くの飛地が整理され周辺の他の新しい町村に併合せられ、また当方も他の飛地を吸収しました。こうして現在の形が出来ました。

Filed under: 未分類 — admin 3:41 PM

宿場町

千住は日光街道・奥州街道・水戸佐倉道の宿場として多く大名が参勤交代に利用しました。その数は日光4藩、奥州37藩、水戸佐倉の24藩の合計65藩に及びました。岩槻藩が日光御成街道を利用して岩渕へ出るのを唯一の例外として房総から東北・関東東部の諸藩は皆ここを利用しました。また東照宮社参の将軍家も御成街道が出来るまでは千住を通り、他にも寛永寺の宮、将軍名代、社参の勅旨、院使なども皆必ず千住を通ったものでした。

千住宿は日光街道の宿場として知られていますが、正しくは日光・奥州の両街道共通の宿場です。つまり千住が二つの街道の宿なので五街道なのに四宿なのです。宿の長さは他の宿のほぼ倍です。このため明治に鉄道が敷かれた時他の宿には、町外れに駅が一つぽつんと置かれただけなのに、千住は宿の中心にそれも二駅も設けられたのです。また千住は宿内に市場の機能ももった唯一の宿で河原町の青物・川魚の市場は江戸周辺でも大規模なものでした。その他にも橋戸南千住の木材などもあり明治になって鮮魚が加わり一時は取扱量でも都内屈指の市場となったのです。今日でもその名残は街中に散見されます。品川、板橋が中世の湊や宿場をそのまま近世の宿場とし、新宿が町内の内藤町を宿場にしたのと違って、千住は江戸幕府によって本格的に設計された宿場です。その機能性は他の宿に比べて一段すぐれたものになっていたようです。

Filed under: 未分類 — admin 6:16 PM
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